Romancing Book

本から閃き

【読書感想】『読んでいない本について堂々と語る方法 』

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「読書を習慣づけたい人がまず読むべき本」というランキングがあったら堂々の第一位でおすすめしたいのがこの本だ。

この本を読めば、おもに学校教育や家庭で形成されてきた「完全な読書」という見方が変わるだろう。読書をもっと身近に感じることができるはずだ。

 

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    その本を読むということはあの本を読まないということ

本を読むことは本を読まないことと表裏一体である。どんなに熱心な読書家においても、ある本を手に取り、それを開くということは、それとは別の本を手に取らず、開きもしないということと同時的である。

図書館や書店に行けば、膨大な数の書籍が並べられていることに気づくだろう。人生で読める本の数は有限であることに気づかなければならない。

つまり、この世に存在する全ての書籍に目を通すことはできない。読書を冊数で競い合うことは無意味で、「読んでいない本が存在しつづけること」は必然なのだ。

 

  • タイトルやカバーからわかること

一冊の本は、われわれの視界に入ってきた瞬間から未知の本ではなくなる。その本に関して何も知らなくても、それについて夢想することも、議論することもできる。(中略)極論すれば、一度でも出会ったあとに未知でありつづけるような本はひとつもないといっていい。

タイトルやカバー、目次、まえがき、他人が書いた書評に至るまで、その本に付随する些細な情報の全てが読書といえるのではないだろうか。読書とは、本文を最後のページまですべて目で追うことだけではない。それは読書のスタイルの一つに過ぎない。

 

  • 「知らない」ということが逆説的に作品に接近する

亡霊の話を信じないティヴ族の人々は、まさにそのことで、シャイクスピア批評の少数派だが活発な潮流に近い立場に身を置いている。この潮流に属する批評家たちは、ハムレット父親の再出現に疑問を呈し、主人公ハムレットは厳格に囚われていたのではないかと示唆しているのである。(中略)作品を知らないことは、逆説的にも、彼らにより直接的な接近を可能にする。しかもそれは、作品の隠された真実といったものへの接近ではなく、作品がもちうる無数の豊かさのひとつへの接近である。

無知であることは悪いことのほうが大きいかもしれないが、それを逆手に取ることもできる。経験も知識もない子どもが根源的な質問を繰り出す例がわかりやすい。大人は情報をいちいち頭で考えて処理するのは疲れるので、これまでに培った「型」で取捨選択するようになる。一見、便利なようで、そういった効率化は視野を狭めることにつながる。

 

  • 学校空間や家庭が押し付けてくる「完全な読書」という錯覚

われわれが他人と書物について語りながら交換するのは(中略)われわれ自身の一部である。こうした交換によって脅かされているのは、われわれのアイデンティティーそのものなのである。この潜在的な空間があいまいさを保持しつづける必要があるのはそのためである。
読書というのは真偽のロジックには従わないものだからである。

(中略)

われわれには他人に向けた真実より、自分自身に向けた真実の方が大事である。

学校教育が教える精読は、文章を正しく読む訓練として役立っているが、それがそのまま読書のスタイルとして正しいとは限らない。作者の意図を正しく受け取ること、暗誦できるまで読み込むことが美化されがちだ。そういった能力も、もちろん読書するうえで必要だが、基本的に文章を読んだときの感じ方は人によって異なる。「答え」が存在することのほうが少ないのだ。

 

  • <他者>は知っていると考える習慣を断ち切ること

そのモデルはかの遺漏なき教養というフィクションである。学校制度によって伝播されるこのフィクションが、われわれが生きたり、考えたりする妨げとなっているのである。
<他者>は読んでいる、だから自分より多くのことを知っている、と考えることで、せっかくの想像の契機であったものが、未読者がすがる窮余の策に堕してしまうのである

(中略)

そこからどのように逃れるかではなく、それをいかに活性化し、その射程をいかに拡げるかを知ることなのである。

他人との解釈の違いを恥じることがある。多数派の解釈が正しいと考えてしまう。そういった不安が、本から得られる創造性を殺してしまうこともありうるのだ。

 

  • とにかく褒める

読んでいない本について著者自身の前でコメントしなければならない状況にある人間に与えられるアドバイスはただひとつ、とにかく褒めること、そして細部に立ち入らないこと、これである

最後に、このアドバイスは本に限らず、ブログにも適用できるだろう。